同事の心が日本を復興させる

先ほど私の親友と言うか兄のような存在である、曹洞宗の住職がフェースブック上で大変為になる書き込みをしました。

私のつぶやきに関してのことでしたが、大変ありがたい話で少数しか見れないフェースブックだけでは勿体ないので

私のブログに転載させていただきます。

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『今日市営住宅での作業中に管理人さんが登場!
「うちの団地に来たんです。避難民さんが、今撤去中の蛍光灯譲ってくれませんか?」
「いいですよ。何なら家財道具一式倉庫から寄付しましょうか?」
「市が何というか分かりませんし、とりあえず明かりがあれば」
… この会話に皆さん違和感は?』の書き込み!

↑今、ここで感じたのは、市、行政…の体質とかそう言うことではなく、避難民さんの人権って言うか… この管理人さん、本人はそんな気はないとしても、心のどこかで上から見下げてるところがあるよね。

震災発生以来、ずっと私の中にあった違和感の正体がわかったんだ。それは、私が曹洞宗のお坊さんとしての発言に繋がっていくから、情報交換が目的の方や、様々な信仰の方や、思想信条をお持ちの方が、1つの思いを遂げるための「北海道から何の支援が出来るか話し合う会」の活動方針には当てはまらないと思うんだ。
だから、単なる1つの意見として聞いて下さい。

まず、「被災者」という言葉!
私も今まで何度も使ってきました。しかし! 確かに、
①今回の地震という原因(因)によって、引き起こされた倒壊=(縁)によって、被った被害(果)、
②今回の地震という原因(因)によって、起こった津波(縁)によって、被った被害(果)、
…③今回の地震という原因(因)によって、引き起こされた原発事故=(縁)によって、被った被害(果)、
など、いずれも結果としてダメージを受けた「人」を「被災者」と呼んでいるのです。

しかし、同じ論法で④今回の地震という原因(因)によって、引き起こされた被害(縁)によって、更に被った被害(果)と見ると、実は、いま全国で、地球上のありとあらゆるところで、何かできることをしようと心を起こしている人も、自分のためだけに買い占めをしてる人も、東京で日用物資が買えなくて困ってる人も、みんな「被災者」なんですよ。
敢えて言うなら、東北地方の被災者の方は「直接的被災者」で、それ以外の方は「間接的被災者」なんです。
だから、「同じ被災者同士」、相手と同じ立場に立って物事を考えて行動するのが、佛教で言う「同事」なんです。
御經に「同事というは不違なり、自にも不違なり、佗(他)にも不違なり」とあります。
…自他の区別をせず、同じ形、同じ姿、同じ心、で差別無く見るという意味です。

恥ずかしながら、震災以来お彼岸の檀家参りで聞こえてくる言葉は、
「ありゃあ、ひどいもんだね、気の毒にね。でもこの辺は何ともなくて良かったわ~」なんです。震災はどこか遠いところで起こってる出来事で、そこに居るのは気の毒な人々で、
それに対して、私たちは何ともなかった幸せな人々で、無関係、人ごとなんです。
先ほどの管理人さん同様、本人はそんな気はないとしても、心のどこかで上から見下げてるところがあるんです。何気なく使ってる「被災者」という言葉から、私たちは知らず知らずのうちに「差別」の心が生まれ、そんな気持ちが心に住み着いているんです。
…「差別」ではダメなんです、「同事」でないと!!!

この災害を、同じ「被災者」の立場で一緒に乗り越えるんです。共に助け合うんです。
一方的に助けようとか、支援しようとかという考え方が、根本から間違っているという結論に私は至りました。
そう考えると、物資支援でも、ボランティア作業でも、募金活動でも、移住受け入れでも、
例え行う行動が今までと一緒であっても、心構えが違います。
…直接的被災者の方々は、今とてつもなく心細く、不安で、精神的に尋常ではない(←悪い意味に取らないで下さいよ!)はずです。
ゆえに、そこに接する私たちの態度・心を敏感に感じるのではないでしょうか…
何かしてやるのではなく、一緒に何かを成し遂げるという心が大切に思えてなりません。
私自身は、以後、そんな心構えで臨みたいと思います。 克宗 拜

 〔文責・克宗〕

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