相馬は原発事故の目ではなく、日本の光。相馬移民と尊徳を視点に

昨年「この人物なら北海道に避難されている方々に光を与えてくれるのでは?」

との思いで北海道十勝は大樹町に住むある大人物にアポイントをとってみたことから、今の気づきがはじまった。

その大人物は、平将門から45代、相馬からは34代の殿様である相馬行胤(そうまみちたね)公である。

野馬追で有名な相馬藩の当代の当主である。last of samurai と呼ぶ人もいる。

出会いから以後、かなり色々な事があったがfacebookでの投稿のみになり、facebookユーザーではない方々に今日の話をするのを送れてしまったことをお詫びしたい。

殿との出会い以後私の歴史の勉強がはじまった。ほぼ毎週会っているので学んだことをご講釈戴けるのもまた学習意欲を増してくれた。

今日はそんな学んだことのまとめと、そこに現状の我が国の価値観に関して問題提起してみたい。

久々に長文を書く気満々である。

相馬中村神社

相馬中村神社

相馬藩の藩領は福島第一原発事故の30キロエリアにほぼ一致する。

相馬藩は世界でも有数の珍しい例で、同族(相馬家)が同一領地を800年以上収めた土地であり、私も相双エリアの友人が増える度に驚くのだが今この平成の世でも殿様の事を我々が天皇陛下を敬う気持ちに酷似するほど敬愛している。

それは平将門が始めた野馬追という軍事訓練を未だに維持し実施している事と相馬藩の歴史、そして二宮尊徳、尊親に答えがあると私は考える。

相馬藩は東日本を襲った天明の大飢饉(1783~84)にて、餓死や離散により半数程度の民を失い、損耗9割にもなる壊滅的な被害をうけた。

この状態では藩は藩籍を幕府に譲るしかない状態から、大移民政策をとり加賀を中心に多くの農民を密入植させ、独自の農業への投資制度を実施し藩政は長期計画の元回復。各藩が羨むほどの人気の藩になった。

しかし天保4年(1833年)に天保の飢饉がおこり、相馬藩は長期計画による備蓄のお蔭で奇跡的に犠牲者を出さずにすんだが、藩財政はまた悪化の一途をたとだった。

その二年後全藩主の病により若干16歳の相馬充胤(みちたね)公が藩主に着く。

今の平成の当主と奇遇に同じ名前だが、充胤公は幼少より御殿ではなく質素な家で質素な生活の上、文武両道で育てられた君主だったそうだ。

この充胤公が藩財政の立て直しの為に江戸に住む「二宮尊徳」の存在を知り、一介の農民の為に江戸まで家老と揃って頭を下げに行き、それを知った相馬藩の農家たちは本来一農村ずつ実施するこの政策を 殿の心に打たれて自ら二宮尊徳の仕法と「荒地は荒地の力をもって耕すべし」の教えを導入し急激に藩財政は危機を免れ成長期へと入っていった。

 

二宮尊徳像(北海道豊頃町)

二宮尊徳像(北海道豊頃町)

この事業を通し村民たちは、「復興は上からの指示を待っているのではダメだ、村民自ら意欲を持って行動しなければいけない」と悟ったそうです。

この時期には越後や越前、薩摩等からも大勢の移民が来たそうです。

移民や復興と言う言葉は私は今も毎日聞いているような気がしますが、この時にノウハウが生かされているかは知りません。

ご先祖様の大事にした故郷という言葉はよく聞きますが、100~200年前と現代の価値観の違いも私には分かりません。

そして尊徳の死後数10年後に、時は明治になり今までの政策は全て廃止されることになった。

尊徳の孫である二宮尊親は祖父の意思を継ぎ、相馬藩で興復社社長に就任し報徳農法を新天地で実践することを求め、100戸以上と北海道は十勝の豊頃町に入植し、北海道を知る者なら想像が着くだろうが厳しい冬や違った気候風土の元に、開拓に成功しその地の開拓を見事に成功させた。(尊親の母親と子はその頃札幌に居を構えた)

ここまでなら、昔話であろうかも知れないし、少し詳しい方なら誰でも知っているかもしれない。

昨年震災後の支援イベントとして、豊頃町が開催したイベントにみちのく会と   あったかい道 がコアックマのご縁で招待された。

物凄く忙しい時期だったので遠くまで行く事に抵抗を感じていたのは今だから白状しよう。

しかし朝3時に出発し、会場に到着後私の考えはふっとんだ。

その時の遠征メンバーは福島の人が一人もいなかったのに、会場に入るなり体育館以上ある会場の中に来場者が満員。

拝む爺さんもいれば、泣いて泣いて止まらない老人、私の爺さんは双葉だと何度も泣きながらいってくる老人、南相馬は先祖の土地だ毎日心配で眠れないと腕を掴む婆ちゃん、開場を歩くのが困難だった。

みちのく会が用意した販売商品も一時間程度?で完売。

そしてステージの上で私と本間さんの共同公演。

我々のつたない避難者さんの生活状況の話を聞き会場内のどれくらいの割合の人が涙を流していただろう。

ステージの上からでもシクシクとあちこちから涙の音が聞こえてきたように思う。

豊頃町で復興応援イベント

豊頃町で復興応援イベント

震災翌日には殿は相馬に入り相馬救援隊を組織し中村神社で陣頭指揮をとり大支援を行ったことは

あまり報じられてないが、ある人の話では日本一の炊出しと物資支援の拠点に

なっていたのではと言う。

そしてこの豊頃町や大樹町役場もすぐに殿に続き相双エリアに入り、

熱い支援活動を繰り広げたそうだ。

先日隣町の大樹町に住む相馬家当代の相馬公とあったかい道黒木統括部長と

豊頃町を訪れその理由が分かった。

運転中助手席から囁かれる殿の歴史話と目に見える光景が、

実は高熱を出していた私にも十分な理解を与えた。

まず運転中私が二宮という住所を見つけ「へぇーこれって?」っと聞いたところから始まる。

殿曰く二宮の地域の人は中でも報徳仕法を今でも最も大事にしその団結力と福島を思う気持ちは強靭なものだそうだ。

北海道豊頃町二宮地区の二宮神社

北海道豊頃町二宮地区の二宮神社

そして高熱の中、石碑や二宮橋、二宮トンネル、二宮神社等をご案内頂戴し、なぜここにリトル相馬が存在するのかを理解することができた。これは我が目で見て体感しなけば分からないことかも知れないが、こういったことをメディアが取り上げてくれるとどれほど多くの方の勇気になるのであろうと考えていながら、殿の「大丈夫か?ソファに横になりなさい」という優しい声が遠くに聞こえてきた。

殿様の優しい心の元に行われた相馬の報徳仕法を、私が体調不良でダウンするなか、何か重なった経験をした気がした。

この相馬の移民の話は何もこの町に限ったことではない。

先週殿が札幌に来られた際に私が尊敬する兄貴分であり、今日本中の支援活動で中心的人物である東日本大震災復興支援財団の荒井専務理事と福島から昨年果樹園と入植とカフェ経営できた安斎さんと車で移動中に、偶然相馬神社の文字が目に入った。

平岸天神山にある相馬神社だ。

まさかと思い殿に聞くと「あっここもだよね。北海道にいっぱいあるぜ」とのお言葉。

荒井さんと僕は互いに地元なのに、改めてこの神社に入りたくなり、殿の許可を得る前にもう車はUターンの方向にむかっていた。

平岸相馬神社で我々に歴史を解説している34代相馬行胤公

平岸相馬神社で我々に歴史を解説している34代相馬行胤公

そこで僕らが神社の説明を受けながら思ったことは、互いに思い思いに重い重要なことだった。

この時の感想を荒井さんは

「鳥肌が立ちました。100年前に相馬から北海道の開拓に来られた方々の時代を超えた熱い想いによって、藩主の末裔(相馬さん)と地域の末裔(僕ら)が、彼らが建てた「相馬神社」の前にいるのだとおもいました。復旧や復興も1年、3年のスパンも勿論大切ですが、100年単位で考えることの重要性も感じました。100年後は必ずに来るのですから。」と語った。

まさに殿が力強く100年後には確実に故郷を取り戻す。取り戻しその時土地に入るだけではなく、アイディンティや文化をとだえさせず、後世に引き継ぐために戦だということが私にはよくよく理解できる。

春にあったかい道が札幌圏に避難した人達にとったアンケートでは、札幌圏に定住を決めた人は58%、帰りたい人が17%。

今目先の政策ばかりで根本的な問題は解決はするのだろうか?
私は数代前の開拓の話を聞き育ったので、今のこの日本の大問題の前に、北海道だからこそできる歴史とその結果に光を当て、明日にでも倒産しそうな北海道を日本の為に一緒にもう一度開拓し役立てて行くのが必要だと思う。

尊徳の説く『報徳』とは、過去・現在・未来を貫く「天・地・人の徳」に報いることです。

報徳仕法の根本は「至誠しせい」にあるとし、その上で「勤労きんろう」「分度ぶんど」「推すい譲じょう」が基本だと述べています。
◇「至誠」とは、まっすぐで思いやりのある心のことをいう。
◇「勤労」とは、熱心に働くことである。
◇「分度」とは、自分にふさわしい生活をすることである。
◇「推譲」とは、働いて得た余分は、将来の自分のために貯えた
り、社会のために進んで譲ることである。

ここからは少々毒を吐くが、戦後高度成長期の世代が壊しまくった文化と精神を振り返り、

手本とせずに、今こそ僕等は歴史的な観点を持ち日本を作り直さなければいけない。

100年後の日本人に壊しまくった世代と言われないように。

僕ももう支援家だのと言われたくない。支援じゃなくて仲間だ。共にこれから今背負っている時を分かつ仲間だ。

ネガティブに考えずに、一緒に沢山目標作って、一緒に沢山責任背負って生きて生きたい。

 

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※相馬と言う相馬市の南相馬は違うとよくご指摘されますが、私は同じ文化圏と考え旧相馬藩領を総称して相馬と呼んでいます

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